2年間勤めたマーケティングセバスチャン株式会社では、フードコーディネーターとしてスタイリング撮影やレシピ開発の仕事のほかに飲食店の新規立ち上げという膨大な業務に向き合った結果、高い評価をいただき、やりがいのある日々を過ごすことができました。
ただ、少しずつ体に無理を感じるようになり、結婚するタイミングもあったので、お世話になったことに感謝しながら41歳を目前に退職することにしました。そこから、“私のスローペースの起業”が始まりました。
起業後は、二足の草鞋で経験値アップへ
「起業」と聞くと、何か華々しい印象がありますよね。
でも私の場合、会社を辞めた後に個人で仕事を始めたものの、それまでにお付き合いのあった方からのご依頼を請ける傍ら、空いた時間で未経験の仕事を体験するなど、「二足の草鞋」のような状態でした。
まったく華々しさはないけれど、自分にとっては「不足している経験値を埋める」ことが必要だと思ったからです。大手企業が運営するデパ地下の食品店舗にパートで入って販売を担当した時には、お客様へのサービスの提供の仕方や売上に繋げるためのビジネスノハウなど、大手ならではの取り組みを目の当たりにし、大変勉強になりました。
名古屋での会社員時代から約10年、求められる仕事を精一杯こなし、休日も少ない中で若さに任せたハードな仕事が続いていたこともあり、少し体を休めるためにゆったりした暮らし方をしていました。
妊活もしたのですが、それまでの自分のヘルスリテラシーが低かったこともあり、残念ながら望む結果には至りませんでした。
後継者候補は自分だけ、でも…

そんな中、父の事業に大きな動きがありました。2016年に、100人以上のお客様で賑わった「四季の味 すし・和食 千代田」を閉店。そして新たに、「善光(ぜんこう)」という名の小料理屋を個人事業主として始めたのです。
それは、かつて営んでいた2軒目のお店を彷彿とさせるような、カウンターとテーブルが3つほどの、15人も入ればいっぱいになるような小さなお店でした。
これにより、元の店の法人である「有限会社千代田」は休眠状態になりました。そこで父から投げかけられたのが、「休眠している会社を、お前が継がないならたたむけど、どうする?」という問いでした。
名古屋で会社勤めをしていた若い頃から、父には折に触れて「家に戻ってきて、この店で何か新しいことを始めたらどうか」と言われていました。
それはまだ、ぼんやりとした未来の話でした。
しかし今回は、法人をどうするかという形で、いよいよ現実的な選択肢が目の前に突きつけられたのです。
私には姉と弟がいますが、それぞれが自分の人生を歩んでいます。
姉は結婚して3人の子供を育てながら、昼の時間にパートとして少し店を手伝ってくれていました。
弟はIT系の仕事に進み、今もその道を追求しています。
実は父も、長男である弟に跡継ぎとしての期待をかけ、弟自身も2年ほど店を手伝っていた時期がありました。しかし、最終的には自分の夢を追って家を出ました。
そういう経緯もあり、母が体調を崩した時に店を切り盛りでき、そして今、食のプロとして独立している私しか後継者候補はいなかったのです。
だからこそ父は、「この店を使って何かやってもいいし、業態変更して好きなことをやってもいい」と、私に道を委ねるような言い方をしてくれたのでしょう。
私が常に新しいことにチャレンジし、何かを模索している姿を見て、一人の経営者として、そして一人の人間としての私の可能性を信じてかけてくれた言葉だったのだと、今ではそう思っています。
丁稚奉公で修行し、暖簾分けで「千代田」を開店した父

父の実家は岐阜県土岐市の美濃焼の窯元で、父は7人兄弟の末っ子として生まれました。
他の兄弟は陶器の窯焼きや陶器商になりましたが、父は土いじりが好きではないことと、食べることが好きだったことで中学校卒業後は食の道に進みました。
地元の店で3年ほど働いた頃、陶器商の兄が若い働き手を探している東京の寿司屋の話を耳にしたことで、両国の有名店への就職が決まったのです。
そこには全国から丁稚奉公に来た若者が集い、10人で雑魚寝しながら仕事を覚えたそうです。
その後に修行した千葉の寿司屋が「千代田」という名で、その暖簾分けで名前をいただきました。
堅実な人は下働きの間にお金を貯めるのでしょうけれど、父はなかなかに破天荒だったようで、兄たちに「お前はもう戻って来い」と連れ戻された時は裸一貫だったそうです(笑)。
それでも故郷の地下街で昭和44年、いただいた「千代田」の名を掲げて店を始めました。
大家さんから「他に寿司屋があるから」と言われると、表向きは小料理屋に変える器用さと腕がありましたが、実際にはお寿司も出していたようです。
しばらくしてご縁があって母と結婚し、姉が生まれた頃には、地下街から出て一軒家で本格的に寿司屋「千代田」を構えることになりました。
最初の地下街の店の近くにもう一軒店を出した後、父は3軒目となる「寿司・和食 千代田」を開きます。
これまでの店と同様、土岐市の中心市街地、駅から徒歩10分ほどの場所でしたが、駐車場が3台分ほどしかありませんでした。
将来的な発展を考えた父は、独立11年目となる昭和55年にさらに大きな挑戦に出るのです。
私が小学2年の頃、それまでの中心市街地から離れた、高速道路のインターチェンジ入り口に近い国道沿いの100坪以上の土地に移転し、100人ほどのお客様に対応できる2階建ての店を建てたのです。
これが4軒目の「四季の味 寿司・和食 千代田」でした。
独立からわずか11年の間に4回も店を拡張・移転したことになります。
後になって聞いた話ですが、この4軒目への移転の際には、38歳という年齢で銀行から1億3千万円もの大金を借り入れたといいます。
広い駐車場を確保するためとはいえ、その金額の大きさと決断力には、自分の同年齢の頃と重ね合わせるとただただ驚くばかりです。

働く両親の代わりに育ててくれたお店の皆さん
昭和40年代に小さく始めた自分の店を、父は移転する度に拡張してきました。
高度経済成長という追い風もあったかもしれませんが、とにかく父と母はよく働きました。
今でも「忙しくて、子どもたちの面倒を見てあげられなかった」と言われますが、私はいつも「全然、そんなことないよ」と答えます。
実際、子どもの頃は、板前さんはじめ、宴会対応の中居さんなど、たくさんの方々に育てていただいたからです。
自宅がお店の2階の別棟にあったので、学校から帰ってお店に顔を出すと、両親はいなくても従業員さんが休憩時間に一緒に遊んでくれました。
上京後も続いた“千代田の娘”としての務め
私が東京に出てきてからも、千代田のメニューは“遠隔”で私が作り続けていたので、お店の状況はずっとわかっていました。
お正月のおせちのチラシ作りや、年末に実家に帰っておせちを重箱に詰めたり販売したりするのも、“千代田の娘”としての私の務めです。


思えば、小学生の頃の宴会の食器片付けから、学生時代の洗い場、そして一度社会に出た後に若女将としてお客様の前に立った経験まで、私の仕事の原点はいつも「千代田」にありました。
華々しくない法人化。父の想いを継ぐ決断
父が2016年に「千代田」を閉店した時、一つの時代が終わったような寂しさを感じました。
そしてその年、父から休眠状態の法人「有限会社千代田」をどうするか、という話を持ちかけられたのです。
2014年に独立し、まだスローペースで仕事をしていた私にとって、それはあまりにも重い話でした。
法人を持つメリットは理解していても、維持していく経費などを考えると、とても現実的とは思えません。
その時は、ただ話を聞き流すことしかできなかったのです。
しかし、その翌年の2017年。父から再び、会社をどうするかという話を持ちかけられたのです。私も一度は真剣に向き合ってみようと思い、会社の謄本と過去の決算書を手に、父とともに公認会計士さんを訪ね、質問しました。
「今の私の状況で、この法人を継承してやっていけるでしょうか?」と。
すると、資料に目を通した会計士さんから返ってきたのは、意外な言葉でした。
「財務状況を見ても、特に大きなプラスもマイナスもありません。
だったら、やってみていいんじゃないですか」
その現実的なひと言に背中を押され、私は「やってみよう」と心を決めました。
そしてそこから、個人で続けてきた仕事を、この「有限会社千代田」という法人格のもとで再構築する、新たな挑戦が始まったのです。
私の起業が、そして法人化が、決して華々しいスタートでなかったのは、こういう経緯があったからです。
大きな夢や計画があったわけではなく、いつも手探り状態。
それでも、父が人生をかけて築き上げてきたものを無駄にしたくない、その想いを受け止めたい、という気持ちが私を動かしたのです。
こうして私は、父が1988年に資本金1,000万円で設立した「有限会社千代田」を正式に継承しました。2026年で38期目を迎えます。
その実行にあたり、千代田で長らくお世話になっていた税理士さんにお願いして、会社の登記を岐阜から東京へ移すための決算書を綺麗にまとめていただくなど、多くの方に支えていただきました。

名実ともに私の事業の新たな母体となったこの会社で、私の人生がどう動いていくのか。
次回、詳しくお伝えします。(つづく)





