24歳で実家の料亭を手伝うため名古屋から岐阜に戻り、しばしの“潜伏期間”の後、二つの会社で仕事と貴重な経験を積ませていただいた私ですが、36歳を迎える頃に一つの大きな転機を迎えます。
そう、いよいよ、東京を目指したのです!たった3つの段ボール箱と「覚悟」を抱えての上京でした。
「本当にやりたいこと」を探して
実務を通して多くの学びと経験をいただいた株式会社モニモスでの仕事は、2年半ほどで終わりを迎えました。
家具・インテリアの小売・卸売を手掛けていたモニモスが、経営方針の変更によりグループ会社と統合。
私も新たな道を模索することになったのです。

退職の際、ありがたいことに、私の仕事ぶりを見守ってくださっていたグループ会社の社長から「インテリアショップのスタッフとしてうちに来ないか」と声をかけていただきました。
しかし、心の中で自問自答を繰り返すうち、「本当にやりたいことは、これだろうか?」という想いが募ります。
インテリアだけに特化するのではなく、もっと広い視野で「食空間」に関わりたい。
その想いから、丁重にお断りし、私の“暗中模索”の日々が始まりました。
「これからどうしようか」。次の仕事について考え、探し続ける日々が続きます。
譲れない「食空間」への想い
そんな中、食空間をプロデュースしたいという想いを持つきっかけとなった木村ふみさんが東京で経営する株式会社ユーアイが社員募集を告知。まさかの求人でした。
六本木ハイアットホテルのフラワーディスプレイなどを手がける会社です。
「これは、何かのチャンスかもしれない!」と期待で心が大きく浮き立ち、履歴書を送ったところ、書類審査は通過。
ハイアットホテルで面接を受けました。
でも、残念ながら通過できず、3次審査で憧れの木村さんにお会いすることは叶いませんでした。
不採用の通知は、想像以上にショックなものでしたが、気持ちを切り替えるしかありません。
一旦、名古屋のマンションを引き払って岐阜の実家に戻り、自分と向き合いました。
展示会で見た新しい可能性
そんな時、脳裏に浮かんだのは、モニモス時代に経験した東京ビックサイトで行われたライフスタイル展出展での光景でした。
特に展示会でブースに立った際、「フリーランスでコーディネーターをしています」と名刺を交換した方々や、個人で生き生きと仕事をする人たちの姿が鮮明に思い出されたのです。
当時の名古屋ではなかなか出会えなかった、自由で多様な働き方。
「やはり東京は市場が大きい。様々な人がいて、無限の可能性が広がっている。
一度でいい、ダメもとでも東京で自分の力を試してみたい!!」。

そう、覚悟を決めたのです。
覚悟一つで、いざ東京へ
気持ちが固まったら、行動あるのみ。
そんな折、幸運なことに、モニモスの東京オフィスで親しくなった女性スタッフから、救いの手が差し伸べられました。
彼女はもともと同郷の友人と新宿エリアでルームシェアをしていたのですが、私を迎え入れてくれるというのです。実は、その同居されるご友人とは全くの初対面。見ず知らずの私を快く受け入れてくださるなんて、本当にありがたいお話でした。
この予期せぬ出会いと、万が一うまくいかなくても「岐阜の実家に戻ればいい」というある種の逃げ道が確保できたことが、私の背中を強く押してくれたのです。
「ダメだったら、またそこから考えればいいじゃないか」――そんな思いが、東京への一歩を踏み出す勇気を与えてくれました。
こうして、36歳の春。
段ボール箱わずか3つと、この温かいご縁を胸に、私は上京。
初めての東京暮らし、そして初対面の方とのドキドキの同居生活が始まったのです。

とはいえ、食関連の仕事をしたいという想いは強くとも、何のツテもなく、すぐには道が開けませんでした。
初めての土地で知り合いもおらず、これまでとは全く異なる業界を目指していたのですから、きっかけを掴むまでに時間がかかることは覚悟の上でした。
不器用な足跡が未来を創る
まずは派遣業に登録し、母の日が近い頃だったので、最初は花屋さんの仕事から始めました。
その後は、輸入業を手掛ける大手食品商社で営業事務。調理師・フードコーディネーターの資格を活かすことができる食と食空間のプロデュースを手掛ける会社での通販販売事業など、様々な職場を経験しました。
こうして振り返ってみると、全然器用ではない、けれど懸命だった自分の足跡に、ちょっと苦笑いしてしまいます。東京に出てきたのも、現状に甘んじることなく、「変化したい」という気持ちがあったのでしょう。
上京してからも、悩みと模索の日々は続きました。
しかし、この東京での地道な積み重ねこそが、当時は思いもよらなかった「起業」という未来を手繰り寄せる力となっていたのです。
その実現の時は、5年後に近づいていました。
